昭和45年7月8日朝の御理解★★
御神訓「生きても死にても天と地はわが住みかと思えよ」
これは説明しても説明しましても、えー、それをそうだと信じない限り、実際は分かることではないことです。信心、そして段々体験を積んで行ってもなお且つ、ここんところはほんとは分からないというのが本当じゃないかと思うですね。いわゆるお道の信心の、おー、死生観というか、という、ね、最高のね。
「生きても死にても天と地はわが住みかと思えよ」んー、先日、伊万里の中村さんが来て、そのう、福島さんの妹さんにあたります方がこの正月に神様にお知らせを頂いたのがね。★戦死されました、あー、兄さんがね、枕上に立たれてね、えー、「今度の私の立ち日はね、あの世への誕生日だからお祝いをしてくれ」と言ったと仰った。
ですから、あー、丁度その立ち日の、二、三日前でした。えー、ここで、えーその、慰霊祭を形ばかりですけれども兄弟皆寄られてされました。久留米のもう一人ご兄弟がおられましてね、その方が福島さんと中村さんと、そういうふうな例えば、そのう事を聞いたり、またそういう事を体験されますとですね。あの世へ行くという事はもうあの世へもう誕生する事だということ。ね。
だからいうならばお祝いだと、で例えばそういうような事を私共はいつも聞いてあります。実際、えー、そういう体験をさせて頂いとってもです。なかなかそこんところのそのそういう素晴らしい死生観というものは、生まれて来ない、地に付いて来ない。ね。信心に、お道の信心の持つ最高のぎりぎりのところの境地だとこう思うんです。
私、今日ここんところを頂きましてね。生きても死んでも天と地とはわが住みかと思えよというところを頂きましたから、そのう、お願いさして頂きよりましたらね。★「健気な心」と頂きました「健気な心」えー、二、三日前テレビを見せて頂いとりましたらね、んー、何ちゅうのか知らんけれど、もう最後のところでしたけれども、女姉妹二人がですね、あのう、法を犯して親の敵討ちをしたいというような場面のところをちょっと見たんです。
そしたら、ああ「大川越前の守」というのがやってましょう。あれあれ。ね。そしたらそのう、最後にえー、その大川一族の二人の姉妹に言っておる事がですね。罪を犯したけれどね、けれどもその女ながらも姉妹二人で親の敵を討とうというその殊勝なね心。いわゆる健気な心に対してです。そのう、罪にならんで済むというような裁きをしておるところであった。ね。健気な心っていうのはそういう事に響いてくるのです。
んなら例えばお芝居で言う、あります「鏡山」なんかがそうでしょう。自分の身は女中の身でありながら、ね、亡き主人のオノエの敵を、おーその討とう言うのですから、その健気な心に免じて、いわば二代目、なんのおとがめもないだけではなくて、二代目オノエとしての成功を致し、失笑するところがありますね。
健気な心というのはそのような素晴らしい働きをするということ。ね、夕べ公子さんが出てまいりましてから、今度親先生達、えー、が東京においでられます。今日七時に立ちます。それで後の事はできんながらもです、勝手の奥様がおられんでもまあ一生懸命やらして頂きますから、いわゆる健気な心です。
若先生と光昭とがここへ出てまいりましてから(よっぽどなじょうなるごと?)「親先生のなさる事は私がします」と若先生が言うてくれ、「若先生が受け持っておる場を私がおかげを頂く」と光昭が言うておる。まあ、だから安心して行って下さいというわけなんです。それは、できるできんは別としてですね。そういう健気な心にね、神様は免じて下さると思うんですね。おかげを下さると思う。
今日は、私初めての東京ですし、えー、飛行機も初めてなんです。家内もそうです。ね。飛行機に乗るということはそう不安でもない。私は実際は不安じゃないです。けれども乗ってそう言うなら知りませんけれどね。初めは誰でも不安と思う。それがね、おかげを頂いておるという事はね「生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ」といったようなものが、ほんとに分かり切ってはいないにいたしましても、それをいつも自分の心の中に頂いておるから、不安がないと私は思うんですね。
はあ、私のこういう健気な心の上にはね、こりゃ神様がおかげをくださるな。あー、平穏無事の有り難い旅行をさして下さるなという気がいたします。私の心にその心があるから、健気な心。ね。例えば「よし、死んでもそこは神様の懐の中だというような思い方なんです」なるほど健気な心の第一と、なということが皆さん分かるでしょう。ね。
ですから、「できぬから」と言うんじゃなくて「できなくてもやってみます」それを健気な心です。ね。それは私共の周囲にたくさんありましょう。どれだけ信心の芽(め)がです。始めの間はだいたいは神様に一年間朝参りをさして頂きたいと言う人があったけれど、けれどもひょっとして、ひょっとしてできんかもしれんから、まあ、一月間やってみよう、そして、二月やってみろう。と例えば健気な心を起こしてです。その朝参りが有り難いということが段々分かって来た。
その発心するという事が健気な心です。ね。例えばその、幹三郎と直子が朝の、おー、御祈念に出てまいります。あれはやっぱり、早う起きて来るのはまあ学生としては大変辛い事です。まあ遅まで勉強いたしております。けれども幹三郎できたりでけなかったりのようでございますけれどもです。「今年は朝参りを実行さして頂く」と言うてお届けしております。
そういうね、できてもできなくても、そういう私、発心をするということ。そういう心がね、いわゆる健気な心ですね。「お前はするって言うてできなかったじゃないか」なんていうことは、決してないですねこの神様は。親神様ですから。と一つ、うー、健気な心を、おー、絞って、いっぱしの信心修行をさして頂きましょう。「生きても死にても天と地はわが住みかと思えよ」ということを、これをいろいろ頂くと大変難しいことでしょうけれどもです。
御教えの中でここのところを「あぁ、そうだ」と、たとえそれがほんとか分からなくても、例えばそれが常人がです、生きても死んでも天と地とはわが住みかだからと言うて、ここに平生心を頂いたらおかげ頂くでしょうね。そのように素晴らしい、いわば功徳(くどく)を持った、これは御神訓だと思いますね。
「生きても死にても天と地はわが住みかと思えよ」と教えられるから、私には分からないけれども、その腹で健気な心を起こしての信心修行に取り組む健気な事、いわゆる健気なこの信心に神様はできなくてもおかげを下さるであろう。私はそう信じます。ただ今申しますように今日、七時からの、北九州、ここを出発する事になっておりますから、少し早いですけれどね、これでご無礼いたします。また、どうぞ留守中、うー、しっかり後ろ祈念をお願いいたします。
しっかり信心を、えー、昼の一時の御祈念の後に頂いております御理解は、あー、ここへ、えー、もうちゃんと、おー、頂いておりますから、えー、それをどうぞ試しに頂いて下さいますように。どうぞ。
明渡 孝